Persona Medusa-成人期にも続く、海外の緘黙経験記

2017年11月19日(日曜日)

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場面緘黙症を経験した方の半生を著した本を読みました。イギリス周辺では、緘黙関係で取り上げられることがある本です。その本を読んだ感想を、ここで書いてみたいと思います。

本の基本情報


書名:Persona Medusa: A Tale of Selective Mutism & Social Anxiety
著者:D.J. Sharry
出版年月:2015年7月
出版社:CreateSpace Independent Publishing Platform


著者は、アイルランド生まれの男性です。私は、電子書籍 Kindle 版を読みました。


内容


内容は、場面緘黙症や社交不安を経験した著者の半生です。幼少期の頃から、結婚式でスピーチを行なうまでのことが書かれてあります。

大人の緘黙と言えるかどうか分かりませんが、大学に入っても満足には話せなかったようです。少なくとも、話せない問題が成人期に至っても完全には解決しなかったと言えそうです。


私には英文が難しかった


この本ですが、まず、率直に言って私には英文が難しかったです。私には慣れないタイプの英文でした。このため、内容を十分に把握することはできなかったかもしれません。

この本に限らず、緘黙経験を書いた英語の本は、私には読みにくいです(単に私に語学力がないだけかもしれませんが……)。案外、専門的な本の方が素直な英文に思え、読みやすいです。

なお、次の記事では、(私にとっては)読みやすい英文で本書の要約がなされています。本書の著者によるものです。

↓ A Lust For Life というウェブサイトへのリンクです。
◇ Understanding Selective Mutism – How a phobia of my voice shaped my life
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このようなお恥ずかしい次第ですが、上の要約も参考に、分かった範囲で感想を書きたいと思います。気になった箇所だけ取り上げて感想を書くかたちをとっています。


感想


「『緘黙』とラベルを貼らず、あなたの経験を話して」


この自伝は、催眠療法士の手により、著者が催眠状態の中で過去を遡るかたちで始まります。ちょっと凝っていますね。冒頭の催眠療法士の次の言葉が印象的でした(5ページ)。

最初にあなたがこちらにいらしたとき、場面緘黙症についてお話されました。私は物事にラベルを貼るのを好みません。何事も、あなたの信念体系に辿りうると私は思います。私は、あなたの経験についてお話していただきたいです。

When you first came here you spoke about Selective Mutism. I don't like to put labels on things. I believe everything can be traced back to your belief system. I want you tell me about your experiences.

信念体系のくだりがよく分からないのですが、要するに、あなたの経験を「緘黙」とラベルを貼らずに話して欲しいということだろうかと解釈しました。

自分自身の経験を「緘黙」の経験談としてまとめようとすると、自らの歩みを「緘黙」というキーワードに沿って構成することになるでしょう。私自身、学校などで話せなかった経験を「緘黙ストーリー」と題して、かつてこのブログで連載しましたが、その際、緘黙と関わりが薄いと思われる出来事については記述を避けるようにしてきました。

このあたり、色々と考えさせられます。著者は後年緘黙を知ったこともあってか、書名とは裏腹に、本書には「場面緘黙症」(selective mutism)という言葉はほとんど登場しません。ですが、話せないことに関わることを中心に書かれています。


アイルランドの緘黙当事者が感じることも、そう変わらない


英語圏の読み物に目を通していつも感じることですが、英語圏でも、緘黙当事者が感じることや、話せないことに伴って困ることは、日本の当事者とあまり変わりありません。本書の著者も学校や職場などで話せず、大変な思いをされたようです。

ですが、緘黙に伴う困り事の中には、日本にはあまりないものもあります。この本だとパーティーです。アイルランドはパーティー文化の国なのか、本書にはパーティーの話が出てきます。

パーティーと言えば、アイルランドの隣国イギリスで、緘黙のウェブマガジンが以前発行されていたのですが、その第1号に、誕生日パーティーなどの社会的状況をどう乗り切るかといった話題があり("How to survive... social situations", 2014)、パーティー文化の国では、緘黙児者には特有の大変さがあるのだろうかと思ったものです。

ただ、日本にも飲み会文化というものがあります。成人期になっても緘黙やその後遺症がある方には、これも一つの問題ではないかと思います。


アルコールについて


本書の後半には、バーとか、ビールといった話がよく出てくるようになります。アルコールにより話せるようになったというような話もあります。成人期の話ならではだろうと思います。また、これはアイルランドというお国柄(飲酒大国)も関係しているのかもしれません。

適度の量のアルコールならば、問題はないでしょう。ただ、詳しくはないのですが、社交不安とアルコール依存の併存率は高めだったはずです(特に欧米、永田, 2009)。

不安症に関するカナダの団体 AnxietyBC は、10代で年齢が上の緘黙当事者の場合、薬物やアルコールで「自己治療」を始める者が現れる可能性を指摘しています("Selective mutism", n.d.)。これとは別に、成人期の緘黙の経験者を対象に行なったある海外の稀少な研究では、アルコールによる自己治療を行なった者は83人中4人だったという調査結果が出ています(Sutton, n.d.)。「自己治療」の結果、アルコール依存に発展しては問題です。

この本の著者はアルコール依存までは至ってはいないようですが、大人の緘黙が注目されつつある中、このあたり気になります。


犯罪被害について


路上強盗でしょうか、本書には、著者が犯罪被害に遭った話が出てきます。どうやら著者は、緘黙だったためにカモにされたと考えているようです。

そういえば、日本の自伝的コミックエッセイ『かんもくって何なの!?』には、セクハラ被害(という言い方は適切なのでしょうか)の話がありました。「アメちゃんはおとなしいから誰にも言わないよね?」と言われ、被害に遭う場面はショッキングでした(モリナガアメ, 2017, 108p、原文では「おとなしいから誰にも言わない」には太字ではなく傍点がついています)。

よく、緘黙であることに対して理解や配慮をお願いするといった話を聞きます。これは、相手のいわば善意に期待する行為です。ですが、誰もがいつでも善意で行動するとは限りません。緘黙であることにつけこもうとする者がいても、不思議ではないのではないかと私などは思います。緘黙児者はこうした被害に遭いやすいのか、そうでもないのか、私は気になっています。


とてもリアル


本書は、著者の描写が非常にリアルです。これは本当に自伝なのだろうかと疑いたくなるほどです。少年時代のことも、かなり克明に書いています。私だったら、ここまで細かく思い出すことはできません。ちょっと凝った冒頭部も合わせて考えると、もしかすると演出が少し混じっているのかもしれません。

どちらにしろ、著者が話せなかった頃に感じていたことを、豊かなリアリティでもって描いた自伝だと思います。





英国で、緘黙支援者を表彰する賞ができる

2017年11月13日(月曜日)

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ケイティーさんを記念した賞 The Katie Rough Memorial Award


イギリスのイングランドで、場面緘黙症の啓発に大きな役割を果たしたり、緘黙支援で優れた実践を行なったりした団体や個人を表彰する賞が設けられました。 The Katie Rough Memorial Award という名の賞です。イギリスの緘黙支援団体 SMIRA が Facebook ページで伝えています。

↓ Facebook に登録されていない方でもご覧になれます。
◇ SMIRA の Facebook への投稿
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これは、今年1月に不慮の死を遂げた、7歳の少女ケイティー・ラフ (Katie Rough)さんを記念した賞です。ケイティーさんには緘黙があり、親御さんは SMIRA の会員でした。ケイティーさんについて詳しくお知りになりたい方は、この記事の末尾「関連記事」をご覧ください。

あくまでイングランドの賞ですので、イングランドにゆかりのない、例えば日本で活動を行なう支援者が受賞することはないものと思われます。


Shine a Light Awards の部門賞


この緘黙支援の賞は、Shine a Light Awards という賞の部門賞です。イギリスには「発話・言語・コミュニケーションに支援を必要とする」子どもや若者という独特の括りがあり(speech, language and communication needs; SLCN)、特異的言語障害 、吃音、自閉症スペクトラム症、脳性麻痺、緘黙など様々な障害がこれに含まれます。Shine a Light Awards は、そうした子どもや若者の支援に携わった人に贈られる賞のようです。ピアソン社と、SLCN 関係の50以上のNPO連合 The Communication Trust の共催?で、年1回贈られます。

そのShine a Light Awards に、SMIRA の提案により、今回の緘黙支援の賞が加わることになりました。

Shine a Light Awards 2018には他に9つの賞があるのですが、特定個人を記念した賞や、特定の障害を対象とした賞は、この緘黙支援の賞だけです。この賞は特殊な位置づけと言えます。その特殊性から、今年1回きりの賞のような気もするのですが、来年以降も続く賞かもしれず、そこは私には分かりません。

2018年1月23日に第一次審査が、2月1日に第二次審査が行なわれ、受賞者が決定するそうです。2018年の審査員は未公表ですが、2017年と2016年の Shine a Light Awards では28人が審査員として名を連ね、少なくともその多くがSLCN支援に関わる方だったようです。

↓ Shine a Light Awards 2018のホームページ。
◇ Shine a Light Home | Pearson Assessment
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緘黙支援を専門とした賞は、初めて聞いた


緘黙支援に携わったことが評価され、賞を授与されるといったことは、海外では過去にもありました。最近では、イギリスで 緘黙経験もある支援者 Natasha Daleさんという方が、Giving Voice Awards 2017 という賞を受賞されています。

また、これは受賞ではなく「受章」なのですが、SMIRA 創設者の Alice Slukin さんが、2010年に大英帝国四等勲士(OBE)を受章されています。

ですが、緘黙支援を専門とした賞というのは初めて聞きました。ケイティーさんを記念してというのも、粋なことを考えたものだと思います。





無口で引っ込み思案な若者に、積極的に話しかけてみたら……

2017年11月11日(土曜日)

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「話しかけてもらえると嬉しい」


「たくさん話しかけて欲しい」

こうした場面緘黙症の当事者の発言を、ネット上で目にすることがあります。また、専門家が、同様のことを緘黙児者への接し方としてすすめているのを読んだこともあります。

そこで私は、とある場で出会った無口で引っ込み思案な若者たちに、積極的に話しかけたことがあります。その若者たちは緘黙というほどではなかったのですが、話しかけられると嬉しいという思いは、そう変わらないのではないかと私は考えたのです。また、それとは別に、この若者たちは孤立がちだったので、放ってはおけないという思いもありました。

彼ら彼女らと私とは年齢差があり、私の方が年上でしたが、さほど大きな年齢差はありませんでした。その場の雰囲気もあり、お互い対等にやや近い関係だったと思います。

私もかつては学校で長期間話せなかった身です(緘黙の診断は受けていません)。当時の私にも、よく話しかけてくれた人がいました。その私が話せるようになって、今度は逆の立場に立ったわけです。


「嬉しいはず」という確信や自信がないと、継続して話せない


それで話しかけてみて感じたことですが……正直なところ、難しさを感じました。相手が無口とあって、私が話しかけて喜んでくれているのか、それともありがた迷惑がっているのか、なかなか掴めなかったからです。また、何らかの反応がないと、つい不安にもなってしまいます。

これは、私が自分に自信がないことも関係しているかもしれません。果たして自分の話は相手にとって面白いのだろうか、知らず知らずのうちに相手の気分を害するような話をしていないだろうか、そもそも私は嫌われてはいないだろうか、などと考えてしまったのです。

また、中には、本当に一人でいることが好きな人もいないとも限りません。私などはそのタイプで、一人で本を読むなどして「話しかけないで欲しい」という無言のメッセージを意識的に出すことも少なくありません。

「相手は、たくさん話しかけて欲しいと思っているに違いない!私が話しかけて、相手は嬉しいと思っているに違いない!」ここまでの確信や自信がないと、継続して話しかけることはなかなかできないのではと感じました。

私としては自分の行動がぶれるのは好まないので、結局最後まで、その若者たちには積極的に話しかけました。中には喜んでくれた若者もいたのですが、私のことをどう思ってくれたのか分からないまま終わった場合の方が多いです。

少年時代、私にたくさん話しかけてくれた人やそうでなかった人たちは、どういう考えだったのでしょう。大人になって話ができるようになり、当時の人たちと似た立場を経験したことで、だいぶ遅れて、そのようなことに思いを致すようになったのでした。