『日本一醜い親への手紙-そんな親なら捨てちゃえば?』

2017年10月12日(木曜日)

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ちょっと刺激的な書名ですが、『日本一醜い親への手紙-そんな親なら捨てちゃえば?』という新刊に、場面緘黙症の経験者の話が少し載っています。症状を持ったまま社会に出たと書かれてあることから、緘黙を成人期に持ち越した方(大人の緘黙)とも解釈できます。

本全体は虐待をテーマとしたものですが、ここでは緘黙という視点から、この経験者の「手紙」を読んだ感想を書いてみたいと思います。

本の基本情報


書名:『日本一醜い親への手紙-そんな親なら捨てちゃえば?』
編者:Create Media
出版社:dZERO
出版年月:2017年10月2月


本の概要


虐待を受けた100人による、親への「手紙」を掲載した本です。この100人は一般公募で選ばれたもので、2017年7月3日まで募集が行なわれていました。1997年にも『日本一醜い親への手紙』が出版されていますが、その第2作です。もともとは、母への感謝の手紙を収録したベストセラー『日本一短い「母」への手紙』への違和感から作られた本だそうです。

本書の100通の「手紙」の一つに、みやなさんという、緘黙を経験した36歳女性によるものが掲載されています(145~148ページ)。「場面かんもく症」という言葉が、しっかり出てきます。虐待を受けたことに加えて、緘黙に無理解だった親のことが綴られています。みやなさんの手紙の題名「お母さんは明るいのに」は、虐待ではなく緘黙に関するものです。


感想


緘黙経験と、その解釈


みやなさんの緘黙が、診断を受けてのものかどうかは書かれていません。ですが、親から受けた仕打ちなどを別とすると、この方の経験は緘黙経験に極めて特徴的なものです。やはり緘黙かもしれないと思わせます。

興味深かったのは、人の名前が呼べないこと。これは緘黙の当事者や経験者の間である程度共通することとして、近年インターネット上で話題に上がっています。

みやなさんは、大人になって緘黙を知ったそうです。こうした経験者は、専門家が本などで解く緘黙の解説に影響を受け、自らの緘黙経験を再解釈することがあります。例えば、親の虐待のせいで緘黙になったと思っていたけれども、本などで書かれてある緘黙の原因論を読んで考えが変わったとか。

みやなさんの場合、まだそうした影響はあまり受けていないのではないかと思います。だとしたら、素に近い、経験者の声と言えそうです。ですが、そうではなくて、専門家が解く緘黙の解説に疑いを持たれているのかもしれず、このあたり、はっきり分かりません。


緘黙に理解のない親もいる


みやなさんの親は緘黙に無理解でした。みやなさんが子どもの頃は、親が緘黙の情報を探し求めにくい時代ではあったでしょうが、それにしても、もっと何とかならなかったのだろうかと思います。当時にも理解ある親もいただろうと思うのですが(『負けたらあかん!』のお母様など)。

緘黙に理解のない親の話は今でも聞きます。もっとも、親ばかりを責めるわけにもいきません。緘黙は現状ではあまり知られておらず、最初から緘黙を知る親は少ないでしょうから、緘黙に気付く前の段階に無理解な言動をとってしまうのは、ある程度避けられない部分もあります。また、親は立場上、子どもが学校で緘黙する場面を見る機会が少なく、事の深刻さをどうしても理解しにくいものと思われます。

とはいえ、親に理解がないと、子どもは可哀想です。特に、親が長期にわたって無理解な姿勢を示し続けると、子どもが親に対してある種の感情を持つようになっても無理のないことのように私には思えます。

少し古い記事ですが、「かんもくの会」の代表も、2008年12月2日の日誌の中で次のように書いています。

かんもくの会の保護者会員の方々だけと接しているとそんな気がしなくなってくるのですが、現実はほとんどの子どもたちはあまり心配してもらえずに放置されていると思います。

緘黙症の当人はどうしてこの苦痛に気づいてくれないのかと親を恨んだりします。

こうした親を持つ当事者が置かれている状況は深刻ではないかと思うのですが、その実態については、いまだはっきりしたことは分かっていません。


緘黙に無理解だった親に対し、30代半ばになっても、ある種の感情


緘黙に限らず、子どもの頃に感じた親に対するある種の感情というのは、なかなか消えないこともあります。 結婚して自らが親になり、その子どもが成人するような年齢になっても、子どもの頃に親にされたことを根に持ち続ける人を何人も知っています。

緘黙経験者の中には、長期にわたって無理解だった親への複雑な感情を、後の人生まで引きずり続ける人はいないのでしょうか。特にみやなさんの場合、緘黙は大人になっても長期間続いたようですし、加えて被虐待経験まであったので、36歳になってもこれだけの思いを持っているのでしょう。


無理解な親のもとでの苦悩は、メディアより、当事者や経験者が直接発信


近年、メディアが緘黙を取り上げることが増えてきましたが、理解のない親のもとで苦悩する当事者に踏み込んだ記事は、私の知る限りありません。また、緘黙に理解のある親が取材対象とされることはあっても、理解のない親が取材対象にされることはありません。理解ある親の思いがメディアで取り上げられると、私などは「それ以前に、親に理解されない人もいるのではないか」と言いたくなります。

このような理解のない親に苦しむ当事者や経験者の声は、インターネット上の個人の情報発信といった、当事者や経験者が直接発した経験談を中心に伝えられてきました。それに、今回の「手紙」が加わったと見ることができるだろうと思います。


大人になったら治るとは限らない


そして、緘黙は大人になったら治るから心配いらないとは必ずしも言えないと、改めて感じました。虐待を受けた経験と併せて、みやなさんも、社会に出てから本当に苦しまれたようです。


むすび


ページ数は少ないですが、おそらく成人期の緘黙経験や、緘黙に無理解な親への思いが、一般向けの出版物で語られたことは大きいと思います。特に後者については、この本だからこそ書けたのでしょう。虐待の経験とともに、本当によく書かれたと思います。

それにしても、緘黙経験もさることながら、虐待を受けた経験も本当に苦しいものだと感じさせられます。子ども視点で描かれたこの本が、問題提起になるとよいです。

※ なお、緘黙経験は多様です。今回の本に限らず、緘黙の経験談は、あくまで一例として読むべきだろうと思います。また、一般論として、緘黙の原因は虐待だとは考えられていません。そして、緘黙に理解のある親もたくさんいます。

[追記(2017年10月14日)]

私が書いたことが誤解を招いたかもしれないので、補足します。

最後に「一般論として、緘黙の原因は虐待だとは考えられていません」と書きましたが、これは、一般論として、全ての緘黙はただ虐待のみを原因として起こるものとは考えられていない、全ての緘黙が虐待の結果起こったものとは考えられていない、という趣旨で書いたものです。言葉足らずだったようで、誤解を招いたかもしれません。

例えば、今年出版された高木潤野『学校における場面緘黙への対応』(学苑社)では、近年は養育環境や親の養育態度は緘黙の主たる原因である可能性は否定されていると説明されています。ただ、その一方で、家族機能の不全を原因の1つとして緘黙を発症する子どももいることも確かであるとも述べられています(99ページ)。

また、一般論はともかく、みやなさん個人が緘黙になった原因については、私が勝手に判断できることではありません。ですが、書き方がまずかったのか、何か誤解を招いてしまったようで、申し訳ない思いです。





福田隆浩『香菜とななつの秘密』

2017年09月30日(土曜日)

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場面緘黙症の傾向があったとも思われる少女が主人公の児童書が、2017年4月に出版されました。緘黙を主題とした本ではないのですが、話題の本なのでご紹介したいと思います。

本の基本情報


書名:『香菜とななつの秘密』
著者:福田隆浩
出版年月:2017年4月
出版社:講談社


著者は、兵庫教育大学大学院を修了し、長崎県の特別支援学校に勤務されています。これまでも『ふたり』など多数の著書を発表されています。本書は、その著者の最新作です。


内容


主人公は佐々野香菜という、引っ込み思案で人と話すのが苦手な小学5年生です。ですが、聞き上手で観察眼も優れており、それを生かして、学校のちょっとした謎を友達と一緒に解いてゆきます。学校の日常をテーマにした、ミステリーものと言うことができるかもしれません。

香菜の引っ込み思案は保育園の頃からで、かつては家族以外の人の前に出ると声を出すことさえできないときもありました。 色んなセラピーを受けたり、ことばの教室に通ったりした経験があります。

緘黙や引っ込み思案を主題とした物語ではありませんが、そうした子に対する作者のメッセージのような箇所もあります。


感想


主人公の観察や思考がよく描かれている


物語を読んで、香菜の観察や思考がよく描かれていると感じました。

静かな子は、一見何も考えていないように見えるかもしれませんが、そのようなことはありません。香菜の場合、うまく話せない分、よく周りを観察していますし、よく考えているのでしょう。また、もともと賢い子なのかもしれません。

緘黙を連想させることが書かれている


作中に「緘黙」の文字はないものの、香菜はかつて家族以外の人の前では声も出せないときもあったとか、セラピーを受けたり、ことばの教室に通ったりしたとか、緘黙を連想させることが書かれてあります。

ただ、緘黙は、特定場面では長期間継続して声が出ない状態を言います。解釈にもよるのですが、家族以外の人の前では声も出せない「ときもあった」という作中の表現は微妙です。緘黙とまではいかなくても、緘黙傾向がある子だったのかもしれないと思います。小学5年生の現在は少し話せるようになったものの、完全克服にまでは至っていない状態なのでしょう。

祖母もかつて香菜のように話せなかったというくだりは、緘黙と遺伝の可能性を思い起こします。作者はよく研究していることが窺われます。


緘黙傾向?の長期的経過には楽観的だが……


周囲の大人が香菜の緘黙傾向?に対して楽観的な見通しを話すのは、もしかしたら、自己成就予言のような意味合いでそう言っているという解釈もできるかもしれません。「緘黙は治らないよ。一生つきあうものだよ」と言われるよりは、「そのうちどんどん話せるようになるからね」と言われた方が、将来話せる可能性は上がるような気もします(根拠はありませんが)。

香菜のことはさておき、緘黙一般について言えば、緘黙の長期的経過は楽観できない場合もあるというのが私の見方です。確かに、そのうち話せるようになる日が来るかもしれませんが、その「そのうち」が数年後か、10年以上先かでは、話がだいぶ変わってきます。また、話せなかった期間が長期化すると、何らかの二次障害が発現したり、コミュニケーションをとる機会を逸し続けたことにより、対人交流への苦手意識が残る場合もあります。

ただ、本は全体的に、緘黙傾向?が残る人や話すことが苦手な人を温かく励ましているような印象も受けました。緘黙傾向?に対する楽観的な見通しだけでなく、人と話すのが苦手だけれども、聞き上手で観察眼に優れるという長所が香菜にあるところからも、そう感じました。



当事者や経験者向けの本が、ほとんどない

2017年08月12日(土曜日)

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私は「それ以外の方」だったのか--

『学校における場面緘黙への対応』という本を読んでいたら、はっとさせられました(高木, 2017, p. 183)。

本書は、主な読者として学校の先生を想定して書きました。もちろん保護者やそれ以外の方にも読んでいただけたら嬉しいですが、学校の先生が実践するという視点で書いてしまったことをご容赦ください。

※ マーカーは、私が施したものです。

保護者はしっかり「保護者」と書かれている一方で、場面緘黙症の当事者や経験者は「それ以外の方」という扱いです。

とはいえ、この「それ以外の方」という表現、言い得て妙だと思います。緘黙をテーマとした本はこれまで多く出版されてきましたが、緘黙についての専門的な本で(つまり経験談の本は除く)、当事者や経験者向けのものはほとんどなかったからです。当事者や経験者は、対象読者としては「それ以外の方」とされてきたのです。

近年出版された、緘黙の専門的な本


具体的に見ていきましょう。近年出版された緘黙の専門的な本と、その対象読者層です。

場面緘黙支援の最前線-家族と支援者の連携をめざして-』(2017年)
⇒専門家や保護者

学校における場面緘黙への対応-合理的配慮から支援計画作成まで-』(2017年)
⇒学校の先生

先生とできる場面緘黙の子どもの支援』(2015年)
⇒学校関係者

どうして声が出ないの?-マンガでわかる場面緘黙-』(2013年)
⇒緘黙児と保護者

場面緘黙へのアプローチ―家庭と学校での取り組み-』(2009年)
⇒保護者、教育関係者、専門家

場面緘黙Q&A-幼稚園や学校でおしゃべりできない子どもたち-』(2008年)
⇒保護者や教師

場面緘黙児の心理と指導-担任と父母の協力のために-』(1994年)
⇒はっきり分からないが、当事者や経験者向けではなさそう

これだけ多くの本が出版されてきたにも関わらず、当事者や経験者を対象とした本は『どうして声が出ないの?』の1冊だけです。

当事者や経験者向けの本が少ないのは、日本に限ったことではありません。私が収集している英語圏の本でもそうです。


当事者や経験者は、緘黙についての客観的な理解まであるとは限らない


緘黙の当事者や経験者だからといって、緘黙についての客観的な理解まであるとは限りません。当事者や経験者が分かるのは、緘黙についての主観的な感覚や、当事者から見た周囲の関わりなどです。

実際、緘黙について理解を訴えるための活動をされている当事者や経験者の方でも、緘黙についての基本的なことを知らない方が案外いらっしゃったりします(私なぞが言うのもおこがましいのですが……)。皆さん、緘黙の本をあまり読んでいないのでしょうか。もっとも、そもそも当事者や経験者向けの本がほとんどないため、読みようもないのかもしれません。