更新日:2022年11月26日(投稿日:2022年11月26日)

署名が40,000人近く集まる
オンライン署名サイトChange.orgで、イギリスの場面緘黙症支援に関する署名が行われている--
という記事を、今年6月に公開しました。署名の内容は、緘黙の子どもや大人を治療するための、NHSのpathwayを作って欲しいというもの。イギリスのどこに住んでいても、標準化された治療を平等に受けられるようにして欲しいということのようです。イギリスの人口は日本の半分程ですが、当時3,000人近くの署名が集まっていました。
↓ その当時の記事へのリンクです。英語。
◇ 緘黙署名に3000人近く(英)
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あれから5ヶ月、署名の賛同者数はさらに膨らみ、40,000人近くにまでなりました。現在は署名数の増加ペースは落ち着いています。
↓ 現在の署名ページへのリンクです。英語。
◇ Create an NHS pathway of treatment for children and adults diagnosed with Selective Mutism
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ここまで署名数が多いと、やはりイギリスの緘黙関係者以外の人も、数多く署名したのかもしれません。
署名ページの「お知らせ・最新状況」によると、署名を呼びかけたJoanna Turnerさんは、国会議員に繰り返し会ったそうです。文章から解釈するに、その議員は、Joanna Turnerさんの地元のAndrew Murrison(アンドリュー・マリソン)下院議員のことと思われます。Murrison議員は医学博士です。保守党の議員で、現在はスナク内閣で防衛政務次官を務めています。
イギリスは最近首相が短期間で2代交代したり、エリザベス女王が崩御したりしています。Murrison議員にしても、政権与党にいるため、役職がコロコロ代わったかもしれません。陳情をするには不安定な政治環境が続いてきましたが、影響はなかったのでしょうか。
更新日:2022年10月20日(投稿日:2022年10月20日)

緘黙は発達障害なのか
日本の一部メディアが、場面緘黙症は発達障害であると説明しているのを以前から時々見かけます。
私は専門家ではないのですが、なぜそのような説明をするのかと首をひねっています。Twitterでも、疑問を呈する意見がこれまで何件も投稿されています(Twitter上の意見が全て正しいと言うつもりもありませんが)。
発達障害は、アメリカ精神医学会のDSM-5というマニュアルでは「神経発達障害」として、また、世界保健機関の分類ICD-10では「心理的発達の障害」として定義されているのですが、そこには緘黙は含まれていません。
ただ、日本の発達障害者支援法では、発達障害に緘黙を含めています。この法は支援の谷間を生まないという趣旨ゆえか、「小児<児童>期の社交不安障害」までも発達障害に含めています。
発達障害者支援法で定める発達障害は、おそらく一般的に理解されている発達障害とは違う、特殊なものではないかなと私は考えています。これを根拠に、緘黙を発達障害とする説明には私は違和感を持ちます。
また、現在のところ緘黙は不安が関係している、不安症(不安障害)というのが一般的な理解です。緘黙を発達障害とすると、緘黙の理解を遠ざける懸念が考えられ、そのことからも、緘黙を発達障害とする立場には違和感を持ちます。
なぜ緘黙を発達障害と説明するのか
ですが、それでも緘黙を発達障害と説明するのには、何らかの理由があるはずです。私になりにその理由を考えてみました。
1 教育や福祉の立場から
緘黙は発達障害者支援法の対象である事実は、教育や福祉の立場からすると重要そうです。緘黙を発達障害とする一部メディアは、教育や福祉の立場から書いたのかもしれません。
2 理解や支援が広がりそう
発達障害はある程度知られるようになってきています。緘黙のその一つだとすることで、理解や支援が広がるようにしようという狙いからかもしれません。いわば、発達障害にあやかろうというわけです。
また、緘黙は発達障害者支援法の対象であることを知らない人も多いので、同法のもと支援を受けられることを周知する狙いもあるかもしれません。
3 緘黙を発達障害者支援法の対象から外させない
緘黙が、発達障害者支援法の対象から外れるのではないかと懸念する声が、緘黙関係者の間で広まっています。メディアを通じて緘黙は発達障害と繰り返すことで、緘黙は発達障害であることを既成事実化しようという政治的思惑からかもしれません。
もっとも、本当にこのような理由からかは分かりません。
更新日:2022年08月30日(投稿日:2022年08月30日)

小さすぎる声しか出せない
場面緘黙症の問題は、話せるor話せないという二分法にとどまりません。話せるけれども、小さすぎる声しか出ないということもあります。
いったいどの程度大きな声で話すことができれば緘黙が治ったことになるのか、つまり緘黙の診断基準に当てはまらなくなるのか、それは専門家ではない私には分かりません。どちらにしろ、人前では小さすぎる声しか出ないというのも問題です。多少静かに話すぐらいなら個性の範囲と考えることもできるかもしれませんが……。
私の場合、この小さすぎる声しか出せない期間が相当長かったです。20歳になってもそうで、難儀しました(ただし、私は自分が話せないことについて医師に診てもらったことはなく、したがって緘黙の診断は受けていません)。当時は単に声が小さすぎるだけでなく、外では家庭と同じように振る舞うことができませんでした。緘黙?はある程度治っていたものの、完治にはまだ至っていなかったというのが、私の実感です。
拡声器やマイクを使ったら、どうなったか
当時、私が考えていたのは、拡声器やマイクを使ったらどうなるだろうということでした。学校行事や大学の講義で、先生が拡声器やマイクを使う場面を見ることがあったからです。ですが、先生ではない私が、そうしたものを使う機会はありませんでした。強いて言えば、高校時代に野球部の全校応援で、メガホンを使ったことがある程度です。
今思うと、このアイデアはまあまあ面白いような気もします。耳が遠い人が補聴器を使うのなら、声が小さすぎる人が拡声器やマイクを使ってもよいのではないかということです。実際、声が出づらい障害の人のための、携帯用会話補助装置は存在します。
小さすぎるけれども、何とか声が出せる段階の緘黙児者が、携帯用拡声器を使って人に声を聞いてもらうことは、より大きな声で話せるようになるためのスモールステップの取り組みの一つとして、どうだろうかと思います。いや、しかし、学校でそうしたものを使うのは現実的とは思えません。また、器具を使って目立ってしまうのを嫌う緘黙児者も多そうです。