緘黙860例から、リスク要因を研究

更新日:2020年05月20日(投稿日:2020年05月20日)
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興味深い場面緘黙症の最新研究を見つけました。私は専門家ではないのですが、軽くご紹介してみます。

↓ その研究です。
◇ Koskela, M., Chudal, R., Luntamo, T., Suominen, A., Steinhausen, H.C., & Sourander, A. (2020). The impact of parental psychopathology and sociodemographic factors in selective mutism - a nationwide population-based study. BMC Psychiatry 20, 221.
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フィンランドのデータを用いた研究です。コホート内症例対照研究という疫学の分析方法を用いて、緘黙860例と、対照群3,250例を比較し、緘黙のリスク要因を分析しています。特に、親の精神障害など、親を重点的に調べています。

著者は複数ですが、著者の所属機関はフィンランドだけでなく、スイス、デンマークと複数の国にまたがっています。

全国的なデータベースを活用


今回の研究で驚いたのは、860例という規模です。これは、緘黙の研究としてはかなりの大規模です。フィンランドの人口は550万。人が少ない国で、なぜこれほどの症例を集めることができたのでしょうか。

なんでも、フィンランドには退院登録簿(Finnish Hospital Discharge Register)という全国的なデータベースがあるそうです。専門的な医療サービスを受けて診断を受けると、ここに記録されます。「退院登録簿」という名称ですが、外来患者の情報も登録されています。

今回の研究はその登録簿を利用し、1987年1月1日から2009年3月30日までの間にフィンランドで単生児として生まれた全ての者で、1987年1月1日から2016年12月31日までの間に緘黙の診断を受けた症例を研究対象に含めています(除外した症例もあります)。この他、複数の全国的なデータベースを合わせて活用しています。

このデータベースの存在ゆえでしょうか、コホート内症例対照研究という分析方法が用いられていますが、これは緘黙の研究では初めて見たかもしれません。通常の症例対照研究なら、過去にも例があります。


緘黙児者の親の年齢


分析の結果、様々な結果が出たのですが、珍しいものに、親の年齢が挙げられます。子どもが生まれた時点の父親の年齢が35歳以上だとその子が後に緘黙である可能性が1.4倍、40歳以上だと1.8倍だったことが分かりました。この傾向は自閉症やADHD、行動および情緒の障害、統合失調症にも見られるそうです。緘黙児者が生まれた当時の親の年齢が調査されたのは、今回が初めてではないかと思います。

ただ、こういうものは別の調査研究で違う結果が出ることもあります。例えば、他の研究グループが違う国で同様の調査を行ったら、緘黙児が生まれた時点での父親の年齢は、特に高くはなかった……ということも起こり得ます。「子どもが生まれた時の父親の年齢が高いと、子どもは緘黙になりやすいんだ!」と断言するのはまだ早く、後の研究を待った方がよいです。

今回の研究をきっかけに、親の年齢の調査が広まるとよいです。緘黙の発症要因の手がかりにつながります。





「場面不活動」(selective inactivity)

更新日:2020年03月18日(投稿日:2020年03月12日)
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カナダからの報告


あまり知られていませんが、興味深く感じた報告があるので、ご紹介してみます。

◇ Hill, L., and Scull, J. (1985). Elective mutism associated with selective inactivity. Journal of Communication Disorders, 18(3), 161-167.

Mark という少年の事例です。この少年は通常は普通に発話をするのですが、人からの求めに応じた質問には答えませんし、他の人の発言にも滅多に応答しません。発話へのプレッシャーを与えると、頭や手が震えてしまいます。

これは当時の言葉で elective mutism、または selective mutism と呼びます。日本語に訳すと「選択性緘黙」または「場面緘黙症」などとなります。皆さんお馴染みの用語です。

ですが、彼のこうした傾向は、非言語的行動にも及んでいます。拍手をするとか、ボールを蹴るとか、文字を書くとか、そうした行動を人から求められたり、注目を浴びたりすると、身体が震えたり、できなくなったりしてしまいます。

これを、著者は selective inactivity と呼んでいるのです。日本語に訳すと「場面不活動」または「場面不活発」といったところでしょうか(訳がこなれてない……もっといい訳ないかな)。


コメント


話せない以外の問題に、名前を与えたのが面白い


私は専門家ではないのですけれども、確かに、緘黙児者には、話せないこと以外にも特徴的な行動が見られることがあります。かんもくネットの資料でも、「学校のトイレに行きにくい。給食を食べられない。着替えが出来ない場合がある」(かんもくネット, 2006, p.1)と述べられています。こうした特徴を、この論文が「場面不活動」と名付けたのが面白いです。

緘黙児者の中には、うまく動けない人もいて、それを特に日本では「緘動」と呼びます。「場面不活動」だと、緘動も含めて、様々な非言語的行動がとりづらいことを言い表すこともできそうです(繰り返しますが、訳語はこなれていませんけれども)。


日本では、話さない以外の問題への注目が高そう


日本の緘黙関係者の間では、この話さない以外の行動への注目度が高いと感じます。緘黙を「力が発揮できない」とか「その人らしさが発揮できない」という説明を好む人が日本にちらほらいるのも(専門家含む)、こうした日本特有の傾向と無関係ではないのではないかと思います。

2019年3月に長野県で行われた「かんもくフォーラム信州上田」に至っては、緘黙を専門とする長野大学の高木潤野准教授が次のように述べ、緘黙経験者などの5人の登壇者にコメントを求める場面がありました(高木, 2018, p.35)。

[お詫びと訂正(2020年3月18日)]

上の記述に誤りがありました。お詫びして訂正致します。ご指摘ありがとうございました。

(誤)2019年3月に長野県で行われた「かんもくフォーラム信州上田」

(正)2017年12月に愛知県で行われた「大人のかんもくフォーラム」


「緘黙」という状態を示す名称は、言語症状の部分を特に取り上げた呼び方であるわけですよね。そのあたりについて、「緘黙」「場面緘黙」「選択性緘黙」という名称と、感じている今の状態とのずれがあるかなと思います。つまり「話せるけども、自分はやっぱり緘黙だ」という部分があると思うのです。ではどういう風に呼んであげたらいいのかとか、その辺についてコメントがある方がいらっしゃったら教えていただきたいなと思いますが。

これに対して、多くの登壇者(解釈によっては全員)が、「緘黙」以外の名称の方がよいという立場をとっています。また、この時Twitterで、この議論について投稿している人が複数いたのですが、やはり、他の名称の方がよいという意見の方が多かったように記憶しています(記憶なので、ちょっと曖昧です)。

日本ではこのように緘黙が理解されているので、今回の論文の「場面不活動」という概念を紹介すると面白そうだと思い、そうすることにしました。

それにしても、上のかんもくフォーラムの議論などを振り返ると、日本ではいっそのこと、「場面緘黙」「場面緘黙症」という名称を捨て、「場面不活動」「場面不活動症」にしようという意見が出てきても不思議ではないと思います。このかんもくフォーラムでのやりとりは「いきなり名称変えましょうという提案をここでしたいというわけではなくて」(高木准教授)(高木, 2018, p.36)とのことでしたが、私はこの議論を読んで、あまりにも急進的な意見交換が行われていると感じて、めまいがしそうになりました。ついていけません。

こういう次第ですので、「場面不活動」というのは面白いと思いますが、それを「場面緘黙症」という名称の代わりにしたいとまでは私は思いません。緘黙に付随することがある行動特徴に名前をつけたのが面白いと考える程度です。


支持されていない


ただ、今回の論文はあまり引用されていません。「場面不活動」という言葉も普及しておらず、支持されているとは言えません。





保護者の認識と、教師の認識の違い

更新日:2019年11月07日(投稿日:2019年11月07日)
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緘黙児への認識に、違いが認められた


場面緘黙症の最新研究の一つです。ちょっと意外に感じる内容でした。

◇ Klein, R.L., Ruiz, E.C., Morales,K., & Stanley, P. (2019). Variations in parent and teacher ratings of internalizing, externalizing, adaptive skills, and behavioral symptoms in children with selective mutism. International Journal of Environmental Research and Public Health, 16(21), 4070.
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緘黙の子どもに対する、保護者と教師の認識を比較しています。また、両者の認識の関係を調べています。

研究への参加者は、アメリカのペンシルベニア州にある大学の、コミュニケーション障害を扱ったクリニックから集められました。緘黙の診断基準に当てはまった42人の子どもが参加しています。

調査の結果、保護者は教師よりも、自分の子どもをより深刻に評価していること等が分かりました。著者は考察の中で、保護者は教師よりも様々な場面で子どもを観察する機会があるのに対して、教師は学校場面でしか見ていないことを、この差が生じた背景として指摘しています。


教師の方が、子どもの緘黙を深刻に見ていそうに思えたが……


これが、私にはどうも不思議に思われます。子どもの緘黙が顕著に表れるのは、多くの場合学校場面です。学校場面での子どもを見る機会は、教師の方が保護者よりも圧倒的に多いです。ですので、むしろ教師の方が子どもの緘黙を深刻に捉えていそうに私には思えるのですけれども。

日本の例ですが、保護者が授業参観で学校場面の我が子を見て、初めて事の重大さに気付いたという話を何かの文献で読んだ覚えもあります(どこで読んだかは失念しました、すみません)。

一方、この研究からは、緘黙児の言語スキルと適応スキルの関係は、教師の方がより的確に認識していることも分かっています。この研究は、緘黙の診断やアセスメントに当たる専門家向けのもののようですが、私たちのような非専門家にも、保護者と教師の両方の視点が大事だということを示唆してくれるものと思います。

それにしても、例の箇所は、私にはちょっと意外でした。