更新日:2023年05月01日(投稿日:2023年05月01日)

家での自分が、本当の自分
学校にいる時の自分は、本当の自分ではない。
家にいる時の自分が、本当の自分。家に帰ると、本当の自分を出せる。
場面緘黙症だった時の自分は、大体このように考えていました(ただし、当時の私は学校で話せなかったことについて医師に診てもらったことはなく、したがって緘黙の診断は受けていません)。実際、過去の記事では「本当の自分」という表現を使ったこともあります。
厳密に言うと、ちょっと違う
ただ、厳密に言うと、少し違います。学校にいる時の自分の有り様は、家にいる時の自分にも影響を与えていました。例えば、私は学校に行くと、無口になったり、他人の評価を極度に気にしたりするあまり「真面目」と呼ばれるようになっていました。そうした学校生活を長期にわたって送り続けるうちに、家庭にいる時も、真面目風の行動をとるようになっていったのです。
このように、学校での自分と、家での自分の境界線には曖昧な部分もありました。こうなると、どちらが本当かという問いにも疑問が出てきます。
また、学校を中心とした生活を送りながら、学校にいる時の自分を「本当の自分」ではないと言い切るのはどうかという思いもあったように思います。
とはいえ、大雑把に言えば、やはり家にいるときの自分が、本当の自分というのが大体の感覚でした。
私以外の当事者、経験者は?
私の場合はこのような次第でしたが、人によって考えは違うかもしれません。学校での自分も、家での自分も、どちらも本当の自分という人もいるかもしれません。また、本当の自分など存在しないとか、そもそもこうしたことを考えたこともないという人もいるかもしれません。
このあたりのところ、緘黙の当事者や経験者らがどのように考えているのかは、私は知りません。
更新日:2023年02月22日(投稿日:2023年02月22日)

緘黙?による制約を肯定的に捉え、信条にまでしていた
「来る者は拒まず、去る者は追わず」
学校で話せなかった頃の、私の信条です。中学生あたりの頃から、このように考えるようになりました。当時の私は、自分は懐が大きい男なんだなどと自己陶酔していました。
しかし、これは自己陶酔するような問題だったのだろうかと今にして思います。というのも、私は学校で話せなかったばかりか、とにかく異常な引っ込み思案でした。このため、自分の意思で「来る者は拒まず、去る者は追わず」という態度をとっていたというよりはむしろ、そうせざるを得なかったのです。実情は「来る者は拒めず、去る者は追えず」でした。
場面緘黙症?による行動の制約を肯定的に捉え、自分の信条にまでしていたのでしょう(ただし、私は学校で話せなかったことに関して医師に相談したことはなく、このため緘黙の診断は受けていません)。それでよかったのかどうか、分かりません。
人間関係面では、ただ環境に依存するばかり
このように、学校で話せなかった頃の私は、周りの人を受け入れるしかありませんでした。「来る者」の中には、いじめ加害者もいました。「去る者」の中には、私に親しくしてくれた人もいました。そうした人たちを拒絶することもできなければ、引き留めることもできなかったのです。
私に親しくしてくれた人にしても、私としてはなんだか一方的に付き合わされている気がしました。このため、この人たちのことを友達とみなすことは、感覚的には必ずしもできないこともありました(申し訳ありませんが)。
逆に、自分から友達を主体的に作っていくといったことはできませんでした。気になる異性にアプローチすることもできませんでした。そうした状況が極まったためか、それとも人が怖かったためか、友達や異性と付き合いたいという感情すらあまり沸きませんでした。
人間関係面では、環境に依存する一方だったと言えます。分かりやすく言えば、受け身ということです。
更新日:2022年12月06日(投稿日:2022年12月06日)

私の場面緘黙症?が治ったきっかけが知りたいという方がいらっしゃるかもしれません。
これについては10年ほど前に書いたことがあるのですが、そんな昔の記事、読んでいないという方も多くいらっしゃるでしょう。そこで、書き改めてみたいと思います。今になって気づいたことも含めて。
20半ばに参加したひきこもりデイケア
話せるようになった最大のきっかけは、20代半ばの頃に参加したひきこもりのデイケアではないかと思います。このデイケアは少人数で、心理のプロが立ち会い、学校と違って学業成績等で評価されない、私にとっては安心できる環境でした。そこで話すことはもちろん、思うようなことを思い切ってやって、それを受け止めてもらえたことが大きかったように思います。
私がひきこもったのは大学卒業後に進路が決まらなかったことがきっかけで、小学校から大学までは、一貫して学校に通い続けていました。ですが、学校では話せるようになる明確なきっかけは掴めませんでした。
とはいえ、長きにわたる学校生活の中で、本当に微妙な変化ではあったものの、年々話せるようにはなっていました。この下地があったからこそ、ひきこもりデイケアでの飛躍につながったのではないかと思います。
それにしても、大学卒業後に進路が決まらず、ひきこもってから、きっかけを掴んだというのは遅すぎるように思います。もっと早くきっかけを掴めていたらと悔やまれてなりません。
「治った」について
ところで、10年ほど前の記事では、20歳前後の時に自動車学校に通った頃辺りに、私の緘黙?はひとまず治ったと言えるのではないかという結論を出しています。ひきこもりデイケアの5年ほど前のことです。
とはいえ、この時でも、まだまだ家庭での私と外での私との間には極めて大きな隔たりがあり、自由に話せるようになったとはとても言えない状態でした。わずかではありますが、自分から人に話しかけることができるようになったことをもって、とりあえず治ったという結論を10年ほど前に出しています。何をもって治ったとするべきかは私にはよく分からず、ここのところはぼかしておきます。
当時は緘黙を知らなかった
なお、当時の私は緘黙を知りませんでした。この件で専門家に相談したことはなく、医師の診断も受けてはいません。このため、私は緘黙ではなかった可能性もあります。あと、ことばの教室に通うなど、特別な支援を受けていたわけでもありません。
また、当時はインターネットが普及しておらず、メディアが緘黙を取り上げることも滅多になかったので、緘黙の情報に接することができませんでした。また、緘黙のことを教えてくれる人も誰もいませんでした。とにかく情報がなかったので、なぜ自分は話せないのか、どうすれば話せるようになるのか、そもそも克服したり治したりといったことができるものなのかどうかなど、何もかも皆目見当がつきませんでした。こういう背景があったことを、付け加えておきます。
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