沈黙は金!?-話せるようになって学んだこと

更新日:2019年11月25日(投稿日:2019年11月25日)
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話せるようになったが、会話で失敗を重ねた


私が話せるようになって日が浅い頃、結構べらべらと自由におしゃべりをしていました。ですが、これで何度も失敗してしまいました。

例えば、会話の最中、気まずい沈黙ができてしまうことがあります。それを避けるため、とにかく話題をひねり出そうとするあまり、余計なことを口走ってしまったことが何度もあります。ある時は女性の前で「相撲パンツ」の話をして、嫌がられてしまったことがあります。

※ 相撲パンツは「まわし」の着用に抵抗がある人にも相撲ができるよう考案されたもので、この話題は下ネタでありません。ただ、問題は話の聞き手がどう感じるかです。

また、不適切発言をしたことが何度もあります。言葉の選択を誤り、本意でなく、しかもその場にふさわしくない発言をしてしまいました。「言葉の選び方を間違っただけだ!本当はそんなこと思ってはいないんだ!」と弁明しても、後の祭りです。

さらに、不確かな知識で、あれこれと話してしまうことも時々ありました。その結果、正確性に欠ける情報を広めてしまい、後で後悔してしまうことがありました。ブログを書くのであれば、自分のペースで裏付けをとってから書くこともできますが、日常的なおしゃべりの場ではそうもいきません。


教訓「沈黙は金」


これも、長い間まともに人と口を利けず、人と話す経験をしてこなかったためかもしれません。会話がこんなに難しいものとは思いませんでした。ですが、そうではなく、単に私の頭が悪いから、このような失敗を重ねただけのような気もします。どちらかは、私にも分かりません。

こうした失敗の末、たどり着いた教訓が「沈黙は金」。思えば、学校などで話せなかった頃は、「富条君は頭がいい」と過大評価してもらえたものです。話さない分、ボロが出にくかったのです。

それにしても、せっかく話せるようになったのに、そのたどり着いた先に見えた境地が「沈黙は金」とは……。優秀な方は、こうした失敗を糧に、話術を上達させていくのかもしれません。

私は逆に、おしゃべりは慎重にするようになりました。現在の私は少し口が重いです。また、あまり詳しくない知識や情報を語る必要に迫られた時は、「知らんけど」(関西人?)のような結び言葉を付け加えるという対策をすることもあります。


緘黙は治すべきだが、話せるようになれば「めでたし」とは限らない


緘黙がある人は話せるようになった方がよいと思います。

ただ、話せるようになれば「めでたし」とは限りません。もっとも、こういう失敗をする人が私の他にどれだけいるか分かりませんが……。





「氷山モデル」への疑問

更新日:2019年11月19日(投稿日:2019年11月19日)
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緘黙の説明で使われることがある「氷山モデル」


場面緘黙症の説明をするときに、「氷山モデル」というものが使われることがあります。

その内容は様々ですが、大体どれも話せないことを氷山の一角として、それ以外の目に見えない多くの問題が水面下に隠れていることを示しています。そうした隠れた問題が、緘黙の要因として記される場合もあります。そして、それを絵図にして表しています。

「氷山モデル」の特徴は、
(1) 話せないこと以外にも、目には見えない問題があることを強調している点
(2) 後者の方が、問題としては多くを占めていることを強調している点
にあると言えるでしょう。

私が緘黙関係で氷山モデルを目にしたのは、確か『どうして声が出ないの?』(2013年)が最初だったかと思います。ただ、この時は絵図や解説文はあるものの、「氷山モデル」という言葉は出ていません。本だと、その後、『学校における場面緘黙への対応』(2017年)でも見かけており、ここで「氷山モデル」という言葉が登場しています。

ただ、どちらの場合も、氷山モデルは引用なども何もなしに、突然登場しています。さらに、それを元に、新聞やインターネット上で氷山モデルに基づいた緘黙の説明が再生産されたこともあります。

そこで、この氷山モデルというものの背景について、補足的な説明をしてみたいと思います。私は専門家ではないのですが、私自身の勉強も兼ねて。


吃音や自閉症などで、以前から使われていた


氷山モデルは、緘黙以外にも、様々な問題行動を捉える一つの視点として使われることがあります。

例えば、ジョゼフ・シーアン (Joseph Sheehan) が吃音を説明するのに氷山の喩えを使ったことが知られます。シーアンの吃音氷山仮説は、よく1970年の著書 Stuttering: Research and Therapy が引用されるのですが、もっと古く、1958年の著作 Conflict theory of stuttering が引用されることもあります。どちらにしろ、吃音関係では50~60年ほど前にはこういう説明の仕方があったようです。

ただ、私はどちらの文献も手に取ったことがなく、シーアンの主張がどのような内容だったかは直接知ることはできません。そこで孫引きですが、例えば次のように説明されています。

↓ シーアンの吃音氷山仮説の説明があります。PDF。6.7MBで、少し重いです!
◇ 植田康頒「吃音のある児童への指導・支援の在り方」
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他に、よく見るのが自閉症の説明です。エリック・ショプラー (Eric Schopler) の氷山モデルで、1995年の著書 Parent Survival Manual: A Guide To Crisis Resolution In Autism And Related Developmental Disorders(『自閉症への親の支援―TEACCH入門』)などが引用されます。


シーアンやショプラーが出所では


氷山モデルを用いた緘黙の説明が行なわれるようになったのは、おそらくごく最近のことではないかと思います。具体的に言うと、『どうして声が出ないの?』が出版された2013年から広まったのではないかと思います。なぜならば、それ以前の文献では少なくとも私は見た記憶が思い出せませんし、学術文献検索サイトや書籍検索サイト、一般的な検索サイトで調べても、2013年以前では出てこないからです(見逃しがあったら、ごめんなさい)。

全国情緒障害教育研究会編 (1974) 『緘黙・孤立児』日本文化科学社 には「氷山の一角」という表現が登場しますが、氷山モデルとは全く違う文脈で、それがまた面白いです(9ページ)。

「しゃべらない」ということによって緘黙児は定義されるが、かれらの臨床像の全体からみれば、それは氷山の一角にすぎない。学校においてまず最も目につきやすい特徴は、身体的な緊張と、行動面の狭小化、受動性、抑制傾向などである。

つまり、緘黙児の表に見える行動は「しゃべらない」ことの他にも、たくさんあるというのです。全くその通りだと思います。他にも、トイレに行けない子や、給食が食べられない子などもいます。

氷山モデルの解説の中には、この点指摘しているものもあります(『どうして声が出ないの?』など)。ですが、氷山モデルというかたちで緘黙を見てしまうとどうしても、緘黙児の表に見えるたくさんの行動が、全体の問題のごく一部に過ぎないと矮小化されてしまいます。このためか、氷山の水上の部分を大きめに描く人もいるのですが、さすがにそれは無理があります。思うに、氷山モデルは緘黙の説明には向かないのではないでしょうか。

話がずれましたが、とにかく、吃音や自閉症などで使われてきた氷山モデルが、緘黙にも使われるようになったということではないかと思います。

↓ こちらの緘黙の説明では、シーアンの吃音氷山仮説を引用したことがはっきり書かれてあります。2ページ目をご覧ください。岡山県健康の森学園支援学校ウェブサイトへのリンク。PDF (427KB)。
◇ けんもり特別別支援教育だより
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海外ではあまり目にした覚えがない


なお、氷山モデルの視点を用いた緘黙の説明は、日本では時々目にするのですが、海外ではあまり目にした覚えはありません。各種検索サイトで調べても、やはりなかなか出てきません。国際的に見ると、緘黙の理解に氷山モデルを持ち出すのは、あまり一般的ではないのかもしれません。

私としては、「氷山モデル」という言い方がしっくりきません。モデルというより、比喩表現と言われた方がなるほどと思います。「氷山の喩え」「氷山の比喩」「氷山の隠喩(メタファー)」という言い方の方が、私としてはしっくりきます。



なぜ「緘黙の当事者、経験者」は、若い人が多いのか

更新日:2017年12月09日(投稿日:2017年12月08日)
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私が場面緘黙症だったことは、もはや遠い過去です。

最近特にそう感じます。当時の感覚は、年々はっきりとは思い出せなくなっています。もっとも、私は今なお、緘黙だった過去から完全に自由になれたわけではありません。ですが、この年齢になってまで、そこまで過去のことに拘り続けなくてもよいように思えてきています。

10代の頃は、自分は一生まともに人と会話ができないものと思っていました。20代半ばあたりに、やっとある程度話せるようになりましたが、それでも、自分が学校などで話せなかった過去は生涯ついてまわるものだと思っていました。それが、この年齢になって、若い頃には考えられなかった心境に至っています。

※ 個人の経験です。また、私の緘黙については診断を受けたことはありません。

こうなると、私より上の世代で緘黙を経験した方は、ご自身の緘黙経験について現在どう考えていらっしゃるのか気になってきました。

ところが、私が知る限り、緘黙経験を積極的に語る方は私と同年代以下の方が多いです。これでは、よく分かりません。

人口ピラミッドから考えると、緘黙の経験者は40代以上の方が多いはず


緘黙について情報発信を行なう当事者や経験者は、年齢層が偏っているように思います。10代半ばから30代、広めに見積もっても40代あたりまでがその中心ではないかと思います。

例えば、以下のリンクは2015年の年末に『週プレNEWS』に2日連続で掲載された、緘黙の記事です。複数の経験者と当事者の話が載っていますが、30代以下の世代に偏っています。

◇ クラスにいた“喋らないコ”…大人になって今も苦しむ「場面緘黙(かんもく症)とは?
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◇ 大人になっても人と話せない…知られざる「場面緘黙(かんもく)症」の苦悩とは
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私が気になるのは、4、50代以上の高年齢層です。もっとも、この年齢層で緘黙が治らない当事者の話をあまり見かけないのは分かるようにも思います。ですが、緘黙を克服した経験者についてはどうでしょう。日本の人口ピラミッドから単純に考えると、むしろ40代以上の経験者の方が多そうです。ところが、そうした世代の方はあまり見かけません。

まるで「サイレント・マジョリティー」のような話です。緘黙について積極的に語らない当事者、経験者が、全体の多数派を占めているのではないかということです。


なぜ高年齢層の経験者は、あまり見かけないのか


高年齢層の経験者をあまり目にしないのが、私には不思議なことに思えます。このことは、なぜか話題にしている人すら見たことがありません。なぜこのように年齢層が偏るのでしょうか。私なりに考えられる要因を挙げてみました。

単に私が目にしないだけ


私は無意識のうちに、同世代の若い人の話ばかり読んでいるだけなのかもしれません。


昔は緘黙の発症率が低かったから、ないし、緘黙が長期化しにくかったから


昔は緘黙になる子どもが少なかったのなら、納得がいきます。もしくは、緘黙が長期化することが少なく、後の人生に与える影響が軽微なものだったのなら、これも納得できます。ただ、そんなことがあるのでしょうか。


高年齢層は、自分自身が緘黙だった自覚が薄いから


子どもの頃のことを忘れている。緘黙や不安症という新たに知った概念を受け入れるよりも、自分は人見知りだったと思って納得している。何らかの理由から、緘黙の啓発効果が高年齢層にまで及んでいない。そうした理由により、自分自身が緘黙だったことの自覚がない人が多いのであれば、これも納得できます。


高年齢層が緘黙経験を語る場は、若年層に比べて限られるから


経験者や当事者の話は、Twitter などインターネット上によく見られます。インターネットは誰でも簡単に情報発信できますが、高年齢層には比較的馴染みが薄いです。


高年齢層が緘黙経験を語るのを、若年層が無意識に妨げているから


緘黙の経験を語る人は若年層が多く、中高年層にとっては立ち入りづらい世界のように感じられるのかもしれません。


年齢が上がるにつれ、緘黙経験に縛られなくなるから


私と同じような理由です。


私も、自身の経験を語る意欲を失い始めている


緘黙については、もしかしたら、年齢を重ねてようやく見えてくるものもあるかもしれません。また、若い頃は緘黙や後遺症で苦労したものの、人生後半で何かが開けた大器晩成型の人もいるかもしれません。ところが、このように緘黙経験を語る人が若い世代に偏っていると、それも分かりません。

それだけに、私としては、この先も自分の緘黙経験を語っていければと思うのですが、そうした意欲がいまいち湧いてきません。昔のことは忘れつつある上、記憶の塗り替えも進んでいるでしょうから、語り続ける自信がありません。また、いつまでも過去のことに拘りたくもありません。他の方の緘黙経験とか、緘黙に関するニュースなどには関心があるのですが、自分自身の経験について拘り続けるのはどうも……。

[追記(2017年12月9日)]

本日の『読売新聞』朝刊に、場面緘黙症への理解などを訴える読者投稿が掲載されました。62歳の経験者とみられる方からです。今でも人と話をするのは苦手と感じておられるようです。ご年配の方からのお話、ありがたいです。

※ 全国的に掲載されたのか、一部地域でのみ掲載されたのかは、私には分かりません。