沈黙は金!?-話せるようになって学んだこと

更新日:2020年05月16日(投稿日:2019年11月25日)
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話せるようになったが、会話で失敗を重ねた


私が話せるようになって日が浅い頃、結構べらべらと自由におしゃべりをしていました。ですが、これで何度も失敗してしまいました。

例えば、会話の最中、気まずい沈黙ができてしまうことがあります。それを避けるため、とにかく話題をひねり出そうとするあまり、余計なことを口走ってしまったことが何度もあります。ある時は女性の前で「相撲パンツ」の話をして、嫌がられてしまったことがあります。

※ 相撲パンツは「まわし」の着用に抵抗がある人にも相撲ができるよう考案されたもので、この話題は下ネタでありません。ただ、問題は話の聞き手がどう感じるかです。

また、不適切発言をしたことが何度もあります。言葉の選択を誤り、本意でなく、しかもその場にふさわしくない発言をしてしまいました。「言葉の選び方を間違っただけだ!本当はそんなこと思ってはいないんだ!」と弁明しても、後の祭りです。

さらに、不確かな知識で、あれこれと話してしまうことも時々ありました。その結果、正確性に欠ける情報を広めてしまい、後で後悔してしまうことがありました。ブログを書くのであれば、自分のペースで裏付けをとってから書くこともできますが、日常的なおしゃべりの場ではそうもいきません。


教訓「沈黙は金」


これも、長い間まともに人と口を利けず、人と話す経験をしてこなかったためかもしれません。会話がこんなに難しいものとは思いませんでした。ですが、そうではなく、単に私の頭が悪いから、このような失敗を重ねただけのような気もします。どちらかは、私にも分かりません。

こうした失敗の末、たどり着いた教訓が「沈黙は金」。思えば、学校などで話せなかった頃は、「富条君は頭がいい」と過大評価してもらえたものです。話さない分、ボロが出にくかったのです。

それにしても、せっかく話せるようになったのに、そのたどり着いた先に見えた境地が「沈黙は金」とは……。優秀な方は、こうした失敗を糧に、話術を上達させていくのかもしれません。

私は逆に、おしゃべりは慎重にするようになりました。現在の私は少し口が重いです。また、あまり詳しくない知識や情報を語る必要に迫られた時は、「知らんけど」(関西人?)のような結び言葉を付け加えるという対策をすることもあります。


緘黙は治すべきだが、話せるようになれば「めでたし」とは限らない


緘黙がある人は話せるようになった方がよいと思います。

ただ、話せるようになれば「めでたし」とは限りません。もっとも、こういう失敗をする人が私の他にどれだけいるか分かりませんが……。





「氷山モデル」への疑問

更新日:2020年05月16日(投稿日:2019年11月19日)
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緘黙の説明で使われることがある「氷山モデル」


場面緘黙症の説明をするときに、「氷山モデル」というものが使われることがあります。

その内容は様々ですが、大体どれも話せないことを氷山の一角として、それ以外の目に見えない多くの問題が水面下に隠れていることを示しています。そうした隠れた問題が、緘黙の要因として記される場合もあります。そして、それを絵図にして表しています。

「氷山モデル」の特徴は、
(1) 話せないこと以外にも、目には見えない問題があることを強調している点
(2) 後者の方が、問題としては多くを占めていることを強調している点
にあると言えるでしょう。

私が緘黙関係で氷山モデルを目にしたのは、確か『どうして声が出ないの?』(2013年)が最初だったかと思います。ただ、この時は絵図や解説文はあるものの、「氷山モデル」という言葉は出ていません。本だと、その後、『学校における場面緘黙への対応』(2017年)でも見かけており、ここで「氷山モデル」という言葉が登場しています。

ただ、どちらの場合も、氷山モデルは引用なども何もなしに、突然登場しています。さらに、それを元に、新聞やインターネット上で氷山モデルに基づいた緘黙の説明が再生産されたこともあります。

そこで、この氷山モデルというものの背景について、補足的な説明をしてみたいと思います。私は専門家ではないのですが、私自身の勉強も兼ねて。


吃音や自閉症などで、以前から使われていた


氷山モデルは、緘黙以外にも、様々な問題行動を捉える一つの視点として使われることがあります。

例えば、ジョゼフ・シーアン (Joseph Sheehan) が吃音を説明するのに氷山の喩えを使ったことが知られます。シーアンの吃音氷山仮説は、よく1970年の著書 Stuttering: Research and Therapy が引用されるのですが、もっと古く、1958年の著作 Conflict theory of stuttering が引用されることもあります。どちらにしろ、吃音関係では50~60年ほど前にはこういう説明の仕方があったようです。

ただ、私はどちらの文献も手に取ったことがなく、シーアンの主張がどのような内容だったかは直接知ることはできません。そこで孫引きですが、例えば次のように説明されています。

↓ シーアンの吃音氷山仮説の説明があります。PDF。6.7MBで、少し重いです!
◇ 植田康頒「吃音のある児童への指導・支援の在り方」
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他に、よく見るのが自閉症の説明です。エリック・ショプラー (Eric Schopler) の氷山モデルで、1995年の著書 Parent Survival Manual: A Guide To Crisis Resolution In Autism And Related Developmental Disorders(『自閉症への親の支援―TEACCH入門』)などが引用されます。


シーアンやショプラーが出所では


氷山モデルを用いた緘黙の説明が行なわれるようになったのは、おそらくごく最近のことではないかと思います。具体的に言うと、『どうして声が出ないの?』が出版された2013年から広まったのではないかと思います。なぜならば、それ以前の文献では少なくとも私は見た記憶が思い出せませんし、学術文献検索サイトや書籍検索サイト、一般的な検索サイトで調べても、2013年以前では出てこないからです(見逃しがあったら、ごめんなさい)。

全国情緒障害教育研究会編 (1974) 『緘黙・孤立児』日本文化科学社 には「氷山の一角」という表現が登場しますが、氷山モデルとは全く違う文脈で、それがまた面白いです(9ページ)。

「しゃべらない」ということによって緘黙児は定義されるが、かれらの臨床像の全体からみれば、それは氷山の一角にすぎない。学校においてまず最も目につきやすい特徴は、身体的な緊張と、行動面の狭小化、受動性、抑制傾向などである。

つまり、緘黙児の表に見える行動は「しゃべらない」ことの他にも、たくさんあるというのです。全くその通りだと思います。他にも、トイレに行けない子や、給食が食べられない子などもいます。

氷山モデルの解説の中には、この点指摘しているものもあります(『どうして声が出ないの?』など)。ですが、氷山モデルというかたちで緘黙を見てしまうとどうしても、緘黙児の表に見えるたくさんの行動が、全体の問題のごく一部に過ぎないと矮小化されてしまいます。このためか、氷山の水上の部分を大きめに描く人もいるのですが、さすがにそれは無理があります。思うに、氷山モデルは緘黙の説明には向かないのではないでしょうか。

話がずれましたが、とにかく、吃音や自閉症などで使われてきた氷山モデルが、緘黙にも使われるようになったということではないかと思います。

↓ こちらの緘黙の説明では、シーアンの吃音氷山仮説を引用したことがはっきり書かれてあります。2ページ目をご覧ください。岡山県健康の森学園支援学校ウェブサイトへのリンク。PDF (427KB)。
◇ けんもり特別別支援教育だより
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海外ではあまり目にした覚えがない


なお、氷山モデルの視点を用いた緘黙の説明は、日本では時々目にするのですが、海外ではあまり目にした覚えはありません。各種検索サイトで調べても、やはりなかなか出てきません。国際的に見ると、緘黙の理解に氷山モデルを持ち出すのは、あまり一般的ではないのかもしれません。

私としては、「氷山モデル」という言い方がしっくりきません。モデルというより、比喩表現と言われた方がなるほどと思います。「氷山の喩え」「氷山の比喩」「氷山の隠喩(メタファー)」という言い方の方が、私としてはしっくりきます。



当事者・経験者間の世代間格差?

更新日:2019年11月13日(投稿日:2019年11月13日)
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私と世代が近い経験者たちの話


場面緘黙症の経験者でも、特に発信力が高い方は、私と世代が近い方が多いようです。

彼女ら彼らは、コミックエッセイを出版していたり、シンガー・ソングライターとして活動していたり、緘黙を取り上げたテレビのゴールデンタイムの番組に出演した実績があったりします。

こうした方たちには、ある程度の共通点があるように思います。

○ 緘黙だった当時、緘黙を知らなかった。大人になって初めて知った。
○ 緘黙だった当時、当事者同士とつながりを持つ機会を持てなかった。
○ 緘黙だった当時、適切な支援を十分に受けたとは必ずしも言えなかった。

この3点は、私にも共通します。ですので、この方たちの話には、多かれ少なかれ共感できる部分があります。

やはり私の世代は、緘黙を知らず、孤立し、支援を受けられなかった方が多いのだろうかと思います。

ですが、そうではなくて、当時たまたま支援の輪からこぼれ落ちた少数の方が、大人になって緘黙について積極的に発信しているだけなのかもしれません。なんとなく前者のような気がしますが、どちらかは、はっきり分かりません。


若い当事者はどう感じているか?


こうした方たちの話や、(最近は書いていませんが)私の経験談を、若い当事者は一体どういう思いで聞いたり読んだりしているのでしょうか。

私が目にする若い当事者の多くは、既に緘黙を知っています。ソーシャルメディアなどを通じて、当事者同士つながりを持っている方もいます。適切な支援を受けている方もいるようです。こうした方たちが、私たちの話を、遠い昔の話のように感じてはいないでしょうか。

ですが、いまだに緘黙を知らず、当事者同士のつながりも持てなければ、適切な支援を受けられない方がまだまだたくさんいるかもしれません。こうした当事者は、なかなか私たちの目の前に現れることがありませんが、もし私たちの話を聞いたら、共感するかもしれません。このような方たちが現在多数派なのか少数派なのかは、はっきり分かりません。

「昔の当事者は緘黙を知らず、当事者とのつながりも持てず、適切な支援さえ受けられない人も少なくなかった。昔の人は苦労したんだね」もし、多くの若い当事者にそう思われているのなら、ある意味よいことなのですが。ジェネレーションギャップはあるのでしょうか。

※ 低年齢の緘黙児の場合、大人の配慮により「場面緘黙症」を知らされなかったり、ソーシャルメディアの使用を認められず、当事者同士のつながりを持ちにくかったりする場合はあるだろうと思います。