「分かってくれない」という訴え

更新日:2021年04月21日(投稿日:2021年04月21日)
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「私たちのことを分かって欲しい」


場面緘黙症への理解は、私も訴えてきました。放置されている緘黙児者を掘り起こし、適切な支援につなげることが、私の主な目的でした。

ところが、緘黙への理解を訴えている方たちの思いは、それだけではないと感じることがあります。「私たちのことを分かって欲しい」という、どこか悲痛な、願いに似た思いを持っている方が、当事者や経験者の中にいると感じることがあるのです。

この苦しみを分かって欲しいというか、内面を分かって欲しいというか、一般的な緘黙の理解にとどまらないものを求める方もいると感じています。


「分かってくれない」という訴えを掘り下げた論文


これとよく似た「分かってくれない」「理解してくれない」という訴えについて、社会学の観点から掘り下げた論文を見つけました。緘黙の論文ではなく、緘黙には当てはまらないのではと思われる箇所もありましたが、興味深く読みました。

↓ その論文です。滋賀県立大学学術情報機関リポジトリへのリンク。
◇ 中村好孝 (2016). 「分かってくれない」という訴えは何を意味しているのか-当事者の発言と多様な取り組み事例から. 人間文化:滋賀県立大学人間文化学部研究報告, 40, 2-10.
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この論文によると、「分かってくれない」という訴えは、ひきこもり、不登校、自傷、摂食障害、虐待、非行、精神障害、性同一性障害、花粉症など、非常に多様な問題を抱える当事者の間で見られるそうです(2ページ)。緘黙に特有の問題ではないのかもしれません。

また、同じ悩みの当事者には理解されるという特徴があるので、セルフ・ヘルプグループは有効なのだそうです(4ページ)。Twitterで緘黙の当事者や経験者を見ると、「共感しました」というやりとりを目にすることがあるのですが、これには、セルフ・ヘルプグループのように、分かってくれる人を互いに提供し合っている一面もあるかもしれないと思います。

もっとも、分かってもらえさえすればよいわけでもない場合もあるそうです。「理解に対する倦怠」です(6ページ)。論文では、不登校のことをそんなに簡単に分かってほしくはないという貴戸理恵氏(不登校経験者)の主張が引用される箇所があります。これは、私も緘黙に関して感じることがあります。例えば、緘黙が単なるシャイと誤解されて「気持ち分かるよ」などという態度をとられた時です。


「分かってくれない」という訴えは、充足することが原理的に困難


このように、この論文は様々な気づきを与えてくれます。ですが、「分かってくれない」という訴えは、「充足することが原理的には困難」という、賛否が分かれそうなことも書かれてあります(8ページ)。

私は、これは一理あると思います。結局のところ、当事者間でなければ分かりあえないのです。

冒頭でお話ししたように、私が緘黙への理解を訴える狙いはあくまで放置されている緘黙児者の掘り起こしであり、「私たちのことを分かって欲しい」という思いは希薄です。これも、こうしたシビアな認識をどこかで持っているからでもあります。ただ、「分かって欲しい」と訴えたくなる気持ちも、もっともだろうと思いますし、無意味なこととも思いません。