来る者は拒めず、去る者は追えず

更新日:2023年02月22日(投稿日:2023年02月22日)
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緘黙?による制約を肯定的に捉え、信条にまでしていた


「来る者は拒まず、去る者は追わず」

学校で話せなかった頃の、私の信条です。中学生あたりの頃から、このように考えるようになりました。当時の私は、自分は懐が大きい男なんだなどと自己陶酔していました。

しかし、これは自己陶酔するような問題だったのだろうかと今にして思います。というのも、私は学校で話せなかったばかりか、とにかく異常な引っ込み思案でした。このため、自分の意思で「来る者は拒まず、去る者は追わず」という態度をとっていたというよりはむしろ、そうせざるを得なかったのです。実情は「来る者は拒ず、去る者は追ず」でした。

場面緘黙症?による行動の制約を肯定的に捉え、自分の信条にまでしていたのでしょう(ただし、私は学校で話せなかったことに関して医師に相談したことはなく、このため緘黙の診断は受けていません)。それでよかったのかどうか、分かりません。


人間関係面では、ただ環境に依存するばかり


このように、学校で話せなかった頃の私は、周りの人を受け入れるしかありませんでした。「来る者」の中には、いじめ加害者もいました。「去る者」の中には、私に親しくしてくれた人もいました。そうした人たちを拒絶することもできなければ、引き留めることもできなかったのです。

私に親しくしてくれた人にしても、私としてはなんだか一方的に付き合わされている気がしました。このため、この人たちのことを友達とみなすことは、感覚的には必ずしもできないこともありました(申し訳ありませんが)。

逆に、自分から友達を主体的に作っていくといったことはできませんでした。気になる異性にアプローチすることもできませんでした。そうした状況が極まったためか、それとも人が怖かったためか、友達や異性と付き合いたいという感情すらあまり沸きませんでした。

人間関係面では、環境に依存する一方だったと言えます。分かりやすく言えば、受け身ということです。