挨拶、私の経験は
更新日:2023年09月19日(投稿日:2023年09月19日)

「場面緘黙症の子が、辛いと感じる」
挨拶運動を行う学校や教師に対して、疑問を呈する声をソーシャルメディアで目にすることがあります。
私も学校では話せない子でしたが、私の場合はどうだったかというお話を今回したいと思います(ただし、私は話せなかったことについて医師に診てもらったことはなく、したがって緘黙の診断は受けていません)。あくまで私の話で、現代の緘黙児者がどう感じているかという話ではありません。
挨拶はできなかったが、あまり困らなかった
実を言うと、私は学校での挨拶については、あまり覚えていません。私の過去を振り返る「緘黙ストーリー」(全100話)でも、特にこれといったことは書いてはいません。特別困った思いをしたことがなかったからではないかと思います。
もちろん、挨拶は苦手としていました。緘黙?が特に重かった小学校~中学時代には、相手に聞こえる声で挨拶をすることはほとんどできなかった覚えがかすかにあります。しかし、そのことで叱られた覚えはありません。おそらく教師は、児童生徒に挨拶の習慣をつけることは大事だけれども、富条(私のこと)については、できなくても仕方が無いと考えていたのではないかと思います。
また、私が通っていた小中学校は、挨拶についてそんなにうるさく指導していた覚えがありません。マンモス校だったので、なにも私1人に配慮してのことではないだろうと思います。確証はないのですが、当時の学校は、今ほど挨拶をうるさく言わなかったのかもしれません。近年、家庭の教育力が低下していて、昔であれば家庭で教えていたことを、学校で教えなくてはならなくなったという話をよく聞きます。そうした背景により、近年では学校の挨拶運動が盛んになっているのかもしれないと思いますが、お話しした通り確証はありません。
挨拶を指導する教育方針を、受け入れていた
挨拶を指導する学校の教育方針については、「僕のように話せない子だっているのに!」と不満を感じたこともなければ、疑問に感じたこともなかったように思います。従順な児童生徒だったからです。学校や先生が言うことだからと受け入れていたように思います。
また、当時の私は「場面緘黙症」という概念があることを知らず、自分が話せないのは性格の問題と考えていたからかもしれません。自分には緘黙という病気や障害のようなものがあると認識していたら、「僕は緘黙児だ!僕に挨拶を求めるのは、足が不自由な子に対して立てと言っているようなものだ!」などと反発していた可能性も、もしかしたらあったかもしれません。しかし、性格の問題と考えていたので、自分を責めていたように思います。もっとも、先ほどお話ししたように、そんなにしつこく挨拶指導する小中学校ではありませんでしたから、自分を責めていたといっても、小さく責めていた程度です。
現代の学校の挨拶運動について、所感
こうした経験をしているせいか、現代の学校の挨拶運動に対して、「場面緘黙症の子が、辛いと感じるからやめろ」と文句を言うつもりはありません。
児童生徒に挨拶の習慣を身につけさせることは必要なことでしょう。それを、500人に1人ぐらいの確立で存在する緘黙の児童生徒のために、学校全体として挨拶運動をとりやめるのは疑問に思います。もちろん、挨拶ができないのは緘黙児者だけではないでしょうが、それでも、そうした児童生徒のために挨拶運動そのものを廃止しなくてもよいだろうと思います。挨拶運動を推進する教師にしても、何も口が利けないような子にまで挨拶を求めるような考えを持った人はそういないでしょう。
しかし、緘黙の理解が広まっていないばかりに、その子が緘黙の児童生徒だと認識されず、挨拶のことで責められる子どもはいるかもしれません。また、全ての教員に、どの子が緘黙の児童生徒で挨拶ができないかという情報共有がなされるとは限りません。事情を知らない教員に緘黙が挨拶をしなければならない場面が訪れたら、辛いところかもしれないと思います。